−沿   革−

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 沿 革 大 要

 戊辰戦争後の長岡は、疲弊の極にあった。時に小林病翁、三島億二郎等先覚は、後日長岡を発展させる基盤は人材の育成にあると考え、明治2年5月、国漢学校を四郎丸村昌福寺(現存)に開設した。翌3年、長岡藩支封、西蒲原郡三根山藩から戦災見舞として 米百俵が寄贈されてきた。藩士等はみなこの分配を希望したが、小林病翁は多くの非難を受けながらも「食えぬからこそ教育するのだ」と断言し、これをもととして学校を大手通(現大和百貨店長岡店の位置)に設立した。
 そもそも国漢学校は朱子学だけでなく古学の研鑽も兼ねしめた藩校崇徳館の高邁な遺風を受け、 国漢学はもちろん洋学局、医学局、演武場等の施設を有し、それぞれの教科を受け、さながら総合大学の観を呈していた。しかし制度の改革により、柏崎本校の分校となるに至って、教科の程度、規模は国漢学校設立当時の趣旨に照らして充分とはいえなくなったので、三島億二郎等(小林病翁は4年長岡を去って上京)は5年11月23日、4千円を投じて、坂之上町の旧藩政庁に洋学校を開設した。その教授一切は、福沢諭吉門下の逸材藤野善蔵(後慶応義塾塾頭)を招き主宰させたが、 教師生徒等は国漢学校から移行したものが多かった。これが本校の起源である。
 「剛健質撲」という我が校の精神は遠く藩風の伝統を受け継いだものであるが、またこの建学の由来に追う所も多い。
 本校は明治5年創立以来130年余長い歳月を経て今日に至っているが、その間幾多の困難に遇い、また時勢の変転に伴い幾度か内容、経営を変え、十度校名を改めた。即ち新潟学校第一分校(明治6年) 長岡仮学校(明治9年)長岡学校(明治9年)私立長岡学校(明治19年)古志郡町村立長岡尋常中学校(明治25年)古志郡立長岡尋常中学校(明治26年) 新潟県古志郡立長岡中学校(明治32年)新潟県立長岡中学校(明治33年)である。以来50年を経て戦後新学制により高等学校に移行改称して現在に至っている。昭和23年6月1日に定時制過程附設。昭和43年5月校舎改築工事に着手。昭和46年10月創立100周年記念式を挙行。 昭和47年3月普通教室棟、特別教室棟、管理室棟完成する。
 平成7年4月理数科新設。令和3年10月創立150年記念式を挙行した。

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